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ドームについて

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DAUM
兄オーギュスト・ドーム(1854-1909)
弟アントナン・ドーム(1864-1931)

 フランス・ナンシーに工場をもつドームは、ガレとともにアール・ヌーヴォー期に国際的な脚光を浴びたガラス製作所であった。ドームの歴史は普仏戦争(1870-71)の悲しい結末に関係する。
 アルザス地方ビッシュで公証人を営んでいた兄弟の父、ジャン・ドーム(1825-1885)は、普仏戦争の敗北によって家族を連れてナンシー地方に逃れてきた移民の一人であった。ナンシーには、中世からガラスの産地として知られてアルザス・ロレーヌの占領地から逃れてきたガラス職人達が幾つもの工房を開いていたが、その内のガラス工場(ヴェルリ・ド・サント・カトリーヌ)の経営を1878年から父ジャンが引き継いだことを機に、ドーム家がガラス製造に携わることになる。やがて二人の息子が事業を引き継ぎ、もともと弁護士を目指していた兄オーギュストが経営を任され、エンジニアの資格を持っていた弟アントナンが芸術監督を務めることになる。始めは食器類と時計用ガラスを手掛けていたが1889年パリ万博でガレの成功に感化され、自社の工房でもデザイン室を設け高級工芸ガラスの制作を始める。1893年からは画家ジャック・グリュベール、1897年からはアンリ・ベルジュがデザイン主任を務めるなど優秀な人材を数多く集め、やがて技術面でも独自の技法(アンテルカレール技法やヴィトリフィカシオン技法)を開発するなどして飛躍的に急成長していった。そして1900年のパリ万博では、ガラス部門でグランプリを受賞という栄誉に輝き、この頃にはガレと並びナンシーを代表する会社としてその名を世界に広めていった。
 1901年にはガレが発起人となって設立されたナンシー派(地方産業芸術協会)の副会長に弟アントナンが選出されるなど、ナンシーの産業にも大きく貢献した。
 1905年には家具職人ルイ・マジョレルとの共同制作のランプを発表、1906年から1914年までガラス作家アマルリック・ワルターを迎えパート・ド・ヴェール技法を導入するなど積極的に多くの作品を生み出していった。
 その後ドーム社は第一次世界大戦後のアール・デコの時代、そして20世紀の戦前戦後の激動の時代を乗り越えて現在に至っている。

 
 ドーム作品の特徴は、ナンシー派独自の自然の観察に基づいた花の装飾にある。植物をつぶさに観察して、その構造をデザインに活かすために、アンリ・ベルジェ率いるデザイン室のメンバー達は足繁く植物園に通い写生を繰り返した。ナンシーは当時ルモワールやクルースなど種苗業者の功績で、新種の交配や品評会が盛んに行われた国際的な園芸都市でもあった。ドームの作品にはロレーヌの草花や、新種の園芸品種、珍しい外国の温室植物など、幅広い種類の植物が採りあげられていた。またロレーヌの野原や森、四季の移ろいや雲の流れ、夕暮れのノスタルジーを映した風景作品もドームの大きな魅力である。
 ドームとガレの製品には様式的に近いものがあったが、ドームはエッチングとエナメル彩色を併用した作品やガラス素地の中に顔料(酸化金属粉)を散らしたマーブル地、ヴィトリフィカシオンによる変化に富んだ素地作りなど、ドーム独自の技法で個性を際立たせている。
また経営面でも、兄と弟の共同経営の下に複数のアーティストの個性を統括していくドームの姿勢は、ガレ一人の才能と個性に依存していたガレ社の場合とはかなり異なっていた。ガレが亡き後、ガレ社が一つの様式を守り抜き、最終的には時代の流行に取り残され閉鎖に追い込まれていったのとは対象的に、うまく時代の要求を読み取り、アール・デコ様式また戦後の経営にもうまく乗り現在も操業している。
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ラリック ガラス技法

ラリックの主なガラス技法

ラリックは宝飾家時代に得た金属鋳造、鍛金技術などをガラスの技法にも応用している。
また彼はデミ・クリスタル・ガラスというガラスを使用している。これは一酸化鉛の含有量が5%程度のため延引性が高くなり成形するのに適し、カットと研磨が容易になるなどの利点があったため多用していた。


主な成型方法は3通りある。
プレス成形、型吹き成形、型吹きプレス同時成形を作品によって使い分けられていた。

・プレス成形
鋳鉄や加鋼鉄製の鋳型にガラスを流しこみ、ローラーなどでなじませて成形する、立像、レリーフなどの制作時に使用されていた。ガラスがある程度冷却したら再び熱処理による焼ならしを行う。これにより形を整え表面を滑らかにするが相当な時間がかかる。

・型吹き成形  
最もポプュラーな成形方法、溶けたガラスを鋳型の中で吹いて成形する。第一次大戦後には圧搾空気を送り込む機械が採用された。主に花瓶などの制作時に使用されていた。

・型吹きプレス同時成形  
型吹き成形とプレス成形を同時に行う技法。香水瓶などの複雑な形を成形するために考案された方法。


・オパルセントガラス   
ガラスの原料に燐酸塩、フッ素、アルミナなどを溶解し、ガラスを成形する時に一気に冷却させ再び加熱することで半濁状態にしたもの。宝石のオパールのように光の角度によって黄色や青色など光が変化する。


・蝋型鋳造ガラス(シュール・デ・ペルジュ)  
原型を蝋で作り、石膏を被せて乾燥させる。その後これを温めて蝋を溶かして取り除き、そこへ溶解したガラスを注入する。またはガラスの粉末を詰めて焼成することもある。徐冷後、石膏を取り壊すと一点もののガラス作品が取り出される。限られたコレクターや展覧会出品用に制作されている。1919年以降は技術が向上し、1901年から33年の間には約600点近く制作されたが現存する作品は極めて少ない。


・パチネ
レリーフ状の装飾を引き立たせる為に考案された彩色方法。アラビアゴムを主体とした溶液に顔料を混ぜたものを、作品表面に塗布し定着させる。凸凹の多いラリックの作品に施すとさらに立体的に見える効果がある。しかし、パチネは性質上剥落しやすいため、保存状態のよい作品は少ない。

ラリックの生涯

Rene Lalique (ルネ・ラリック)

ラリックを語るとき、彼には二つの顔がある。宝飾家としての顔、そしてガラス工芸家としての顔である。またアール・ヌーヴォー、アール・デコという全く異なった二つの時代を超えた数少ない作家である。

宝飾家ラリックとして
 ルネ・ラリックは1860年フランス、マルヌのアイという街で生まれた。母の強い薦めで1876年に装飾美術学校に入学しているが、同時にパリの貴金属細工師であったルイ・オーコックのもとで宝飾について学んでいる。そして1878年から1880年までロンドンに留学しシィデンハム・カレッジで美術を学んでいる。
帰国後も彫刻を学びながらパリのプティ・フィスのもとで宝飾についての仕事を始め、この頃からカルティエ、ブシュロン、デェスタップ、オーコックなど有名な宝飾商会と自由契約を結び、宝飾の原型やデザインを提供していく。その後、自らの工房を持ち宝飾家ラリックとして独立することになる。わずか25歳の頃である。
 当時は産業革命以降イギリス人、ウィリアム・モリスによって提唱された美術工芸運動「アーツ・アンド・クラフツ運動」によって各国に様々な影響を与え、加えて日本美術、イスラム美術など様々な影響も加わりアール・ヌーヴォーという新たな美術様式が生まれていた時代。
 この新たな波の中、ラリックも宝飾作家としてその地位を確立していった。彼の頭の中にある複雑なイメージを独特な感性で形に起し、見事な装身具または高貴なオブジェのような作品を作り上げた。古典的なモチーフ、自然主義的なモチーフを巧みに利用しそれまで宝飾として使われることのなかった技術を駆使し、全く誰も思いつかないような独創的なデザインを生んだ。当然彼の人気は瞬く間にパリに拡がり、多くのパトロンを持つ売っ子作家となった。大女優サラ・ベルナールもその顧客の一人であった。
 1900年パリ万博にはガレ、ドームなどをはじめラリックも同様に100点以上もの宝飾品を出品し大反響を呼び、世界中の美術館や美術品コレクターが買い求め、ラリックの名は揺るぎないものとなった。彼が40歳の頃である。
  

ガラス工芸家ラリックとして
 時代は20世紀に入り、言わば1900年のパリ万博はアール・ヌーヴォーの絶頂期でもあり、終焉の始まりでもあった。これまで以上に産業科学が発展し、新しい技術が次々と発明され、芸術の世界にも新しい変革の波が押し寄せていた。
ガラス工芸家として本格的にキャリアをスタートさせたのは、1907年にフランソワ・コティに香水瓶とラベルデザインの制作を依頼されたのがきっかけだった。これが評判となりフォルヴィユ、モラビト、ウォルト、オルセイなど数々の香水業者から注文を受けるようになり、最終的には香水瓶だけで400種類以上制作されている。この頃から花瓶、テーブルウェア、照明デザインなど多岐にわたりデザイン・制作している。またこれまではガラスという素材で作られることの無かったものにも積極的にガラスによる作品を作り始める。ラジエーターキャップと呼ばれるカーマスコットや室内装飾、また大西洋横断船「イル・ド・フランス」などの室内デザインも手掛けている。
1925年、パリにおける「現代装飾美術・産業美術展」では、ラリックのための博覧会と言っても過言ではない。彼のためにひとつのパビリオンが設置され入口にはガラス製の噴水が制作されるなど彼の成功と同時にアール・デコの絶頂期とも言える。
1932年頃のカタログにはデザインナンバーが5244番まであり、膨大な点数となっている。
1945年、85歳でこの世を去ることになる。彼の死後は息子が事業を引き継ぎその後の波乱の時代を乗り越え現在まで操業している。

アンティークジュエリー技法説明

アンティークジュエリー技法説明



<オープンワーク>

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糸鋸でプラチナの地金をくりぬき、繊細な金属ラインを残す技法。繊細であればあるほど角度を調整しながら細い糸鋸で挽いてヤスリで仕上げなければならず、やり直しのきかない熟練の職人の高度な腕がいる仕事。格子状のラティスワークやトレリスワークなどもある。



<ミルグレイン>

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連続するボール状の装飾をすべてタガネで彫りだす技術。、光線を拡散させて地金のメタリックな反射光を明滅する無数の粒にしてしまう効果がある。



<カリブレカット>

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1905年頃から市場に登場し始めたプラチナを使ったジュエリーならではの技術で、エドワーディアンからデコのジュエリー名脇役ともいえる存在。石を留めるのに爪を使わず石の両側又は三方向の縁を僅かに倒して留める技法。連続する石の間に爪が見えずすっきりとした印象になる。しかし台座のデザインにあわせて小さな石をカットし色を合わせて隙間なく留めていく作業は、職人の高度な技術と石カットによる目減りのコストを要する。



<フィリグリー>

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もともと北アフリカとヨーロッパ地中海沿岸全域に共通した金細工の技術であった。何本かのゴールドワイヤーをよったものをヴィクトリア時代のエトルリアリバイバルでは地金に溶接して文様をだしたり、ジョージアン時代には金のボリュームをだすため巻き上げて使われたりしている。



<グラニュレーション(粒金細工)>

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1000度の熱で溶ける金よりも低い温度(700度)で溶ける金蝋を蝋付けるもの同士の間に挟み、700度の熱を加え金蝋だけを溶かして溶接する。しかし連続してつける場合は、一つをつけてもう一つを付けている時熱が加わり、先に付けた粒金がはずれてしまう。



<エナメルミニュアチュール>

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ガラス質の釉薬で描き炉に入れ800度の熱で焼成するが、色によって温度差が違うので多彩で彩りの美しいエナメルはより高度な技術が要求されることになる。



<カンティーユ>

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その繊細な刺繍のような造詣から、フランス語で刺繍に用いる金銀糸を意味する名前がつけられており、細い金や銀の線を自在にまげてつなぎ合わせてつくる技法。金が希少であった時代に少ない金でボリュームのある作品に仕上げる為に使われた。
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