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ラリックの生涯

Rene Lalique (ルネ・ラリック)

ラリックを語るとき、彼には二つの顔がある。宝飾家としての顔、そしてガラス工芸家としての顔である。またアール・ヌーヴォー、アール・デコという全く異なった二つの時代を超えた数少ない作家である。

宝飾家ラリックとして
 ルネ・ラリックは1860年フランス、マルヌのアイという街で生まれた。母の強い薦めで1876年に装飾美術学校に入学しているが、同時にパリの貴金属細工師であったルイ・オーコックのもとで宝飾について学んでいる。そして1878年から1880年までロンドンに留学しシィデンハム・カレッジで美術を学んでいる。
帰国後も彫刻を学びながらパリのプティ・フィスのもとで宝飾についての仕事を始め、この頃からカルティエ、ブシュロン、デェスタップ、オーコックなど有名な宝飾商会と自由契約を結び、宝飾の原型やデザインを提供していく。その後、自らの工房を持ち宝飾家ラリックとして独立することになる。わずか25歳の頃である。
 当時は産業革命以降イギリス人、ウィリアム・モリスによって提唱された美術工芸運動「アーツ・アンド・クラフツ運動」によって各国に様々な影響を与え、加えて日本美術、イスラム美術など様々な影響も加わりアール・ヌーヴォーという新たな美術様式が生まれていた時代。
 この新たな波の中、ラリックも宝飾作家としてその地位を確立していった。彼の頭の中にある複雑なイメージを独特な感性で形に起し、見事な装身具または高貴なオブジェのような作品を作り上げた。古典的なモチーフ、自然主義的なモチーフを巧みに利用しそれまで宝飾として使われることのなかった技術を駆使し、全く誰も思いつかないような独創的なデザインを生んだ。当然彼の人気は瞬く間にパリに拡がり、多くのパトロンを持つ売っ子作家となった。大女優サラ・ベルナールもその顧客の一人であった。
 1900年パリ万博にはガレ、ドームなどをはじめラリックも同様に100点以上もの宝飾品を出品し大反響を呼び、世界中の美術館や美術品コレクターが買い求め、ラリックの名は揺るぎないものとなった。彼が40歳の頃である。
  

ガラス工芸家ラリックとして
 時代は20世紀に入り、言わば1900年のパリ万博はアール・ヌーヴォーの絶頂期でもあり、終焉の始まりでもあった。これまで以上に産業科学が発展し、新しい技術が次々と発明され、芸術の世界にも新しい変革の波が押し寄せていた。
ガラス工芸家として本格的にキャリアをスタートさせたのは、1907年にフランソワ・コティに香水瓶とラベルデザインの制作を依頼されたのがきっかけだった。これが評判となりフォルヴィユ、モラビト、ウォルト、オルセイなど数々の香水業者から注文を受けるようになり、最終的には香水瓶だけで400種類以上制作されている。この頃から花瓶、テーブルウェア、照明デザインなど多岐にわたりデザイン・制作している。またこれまではガラスという素材で作られることの無かったものにも積極的にガラスによる作品を作り始める。ラジエーターキャップと呼ばれるカーマスコットや室内装飾、また大西洋横断船「イル・ド・フランス」などの室内デザインも手掛けている。
1925年、パリにおける「現代装飾美術・産業美術展」では、ラリックのための博覧会と言っても過言ではない。彼のためにひとつのパビリオンが設置され入口にはガラス製の噴水が制作されるなど彼の成功と同時にアール・デコの絶頂期とも言える。
1932年頃のカタログにはデザインナンバーが5244番まであり、膨大な点数となっている。
1945年、85歳でこの世を去ることになる。彼の死後は息子が事業を引き継ぎその後の波乱の時代を乗り越え現在まで操業している。
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